移り住む人 地に元から住む人
東京にいた時、
「田舎暮らしをするなら、移住者が居る場所だと安心。」
と云った友人がいて、私はそういう考えがある人もいるんだな、そういう集団は出逢いのきっかけであってもよいが、移住者が集まるという居所があることを「安心」するにはあまりうなずかなかった。
当時思うと、同じ目線だったり、温度だったり、センスだったり、立場の似た人が集まると安心するという事なのだろう。
私は帰属意識が薄い。さらに環境の大きな変化で心細さを感じた。その時にそれを解釈できた。
が、その私の心細さを移り住んだ人も地元の人も癒してくれた。
以前村で光差し込むハイカラな若い建物に行ってコーヒーを買った。
そこで、
「移住された方ですか?」
と聞かれたことがあって、「引越して来ました。」と答えました。
移住という単語が盛んなこの村は、地元の人が外からの人間に対して偏見があるというよりか、寛容だなと思います。
それは元々の風土や地形で外からの人間が往来していた歴史があるんじゃないかと云った方がいます。確かにここ最近の移住者の推移というより、昔から移住者はいた。それはこういう背景あっての今なのかもしれない。
伊勢への街道、登山道、鮎釣り、吟行、木材の流通。
そういう外からの方々に対して商売したり、受け入れ暮らしたり。そういう歴史背景が下地にある。
だから「移り住むに風土」については整っていると想うのです。
有り難い事ですが、私の近所の方々もお互い楽しい気持ち持ちながら、暮らしてるのかなと愛すべき隣人の存在を感謝です。今日も手作りキュウちゃん漬けくれた。
もちろん地元だとか、移住者だとか、くくりはあるのかも知れません。
でもいつまでたっても移住者扱いだとか、嫁い来たら移住者じゃないとか、この謎の概念「移住者」はどこかわずかに排他的な側面がみえるなと思った。
そう見える時点で、私も確かな「移住者」なのかもしれない。
ようは同じ住民です。変な話、単なる私的な感情から芽吹き絡まった蔓のようなもの。
「東京じゃこんな野菜もらったりおかずもらったりしないんじゃない?」云ったばあちゃんがいて、「東京は色んな人が上京してるから、田舎からトウモロコシが来たとか、オクラが来たとか、玉ねぎが来たとかが九州から北海道まで。うちの田舎のももらってくれたり、お互い様だったんだ。」
移住一年目で「あんたは昔からあった事があるよ。」と云ってくれたおばちゃんの言葉が救いで心に残っている。ということは、どこに居ても、そこでどんな付き合い方をしているかで移住や地元の概念は超えられる。そして単純な「一員」という地域の生活者になる。