mariannelife

higashiyoshino since 2018

東吉野で活動

私は2018年の3月に東京の中目黒からこの村に来ました。3年と3ヶ月。4年目。

夫はカメラマンとして。私はイラストで写真と共に旗揚げ!

まだゆるゆるではあるが、この4年目は、仕事を軌道に乗せる事を注力。地域おこし協力隊という制度で3年を過ごしたが、やはりそこでの縁は大きい。有難いことに紹介が紹介を生んで忙しくさせてもらっています。

東吉野の地域密着カメラマン!そのネーミングはダサいと。しかしこのいいとも!のような友だちの輪はこの地域から愛されてることは違いない。

しかしながら、これから先夫婦で共倒れになる可能性もあるので、価格は課題としています。ここで撮れるという価値をお客さんや私たちも大事にしていければ成り立つ部分はあるよう感じます。東吉野の価値を安くしているのは自分自身かもしれません。

私は東吉野は自然に囲まれ、高見山も心を映し出すようなシンボリックな使い方も出来てしまえるし、なんにせよご近所さんが楽しいので好きな場所です。また、これから好きになれる部分もあるのかなと思います。そして、遠くの水脈とも何処でも繋がれる時代に感謝して、ここの良さを磨いていけそう。

仕事の事ですが、ここのところ、時給換算したら50円だった時(計算し直しました。)、悩みました。自分は今までボランティア的なことを好んでいた。この地にきて仲間に出会い、でもそれはどうなのか?という問いを常に手元にチラつかせては握りつぶしていた。その握力が好きだった。でもそこで潰した物はリンゴのような果実で、敢えて食べられなくした。リンゴより美味いものがあると。勿体なさを嘆きたくはないがこの気持ちに辿り着くまでの過程は大きい。

私は思想を纏えと、人のために、世のために問いかけることを大学でインストールした。これも私の1/3を占めて出来ている。そんな叙情的な造り方はいかにも自分らしく、発見が多く、それを受け入れてくれる仲間と場。ここに居るとものづくりが楽しいと思えた。しかし大学では稼ぎ方は学ばない。絵で食っていく為には、デザインで食っていく為には、作家として食っていくには、ではなく、内なるものの向き合い方、引き出し方。私は未だに学生気分なのかもしれない。

生活にたくさんの要素があるが、金目のものに感覚を研ぎ澄ましていく必要はある。(言い方が見つからない。価値を紐付けたりと。良くも悪くものお金のイメージ。)

しかし、それは現金より別の感覚(対人、対仕事、対家計などの金銭感覚も含んだ生きていくための感覚が)が研ぎ澄ましていると言え、私の不毛な荒地を整える時が来た。」と言えるような。

これを3年で培えたことは、はっぴー。私らしく、私はならではのイラストに乞うご期待。そして、人情のように、3ヶ月後にイラストは悪とか言ってたら東京に帰れと言ってくれ。この1年は貴重な時。

とにかく自分を好きになって自分の絵描いて。絵も人もだけど、、魂が現れる。にじみでるのかしら??できるできないにとらわれず、ありのままに。と私を励ましてくれた遠くの仲間の言葉を胸に。そしてここでも綴ります。