mariannelife

higashiyoshino since 2018

あそび

遊びは学びだとか、色々言われるけど

遊びを学びと捉えてしまうとバカなことが出来ないような。

発信や受けとる人よって、都合がよかったり、不都合に感じたり。

ともかく、大人の子どもに対する打算的でお膳立てされた、また、整理されてビジネスになりつつある遊びに違和感をもったりします。

夏になって、私はどう過ごそうかなーと思っているのも、これも不自然なもので、あんたらの好きなように出来たらいんだけどなぁ。と思いながらも、YouTubeや、パソコンなどに流れてしまう過ごし方に嫌悪したり。

好きなモノをやらせておけばいいんです、そこで得る物もある、そこで見守れるかだ、その嫌悪は芽を摘んでいる、とも言える。教育者と保護者と専門家のそれぞれの立場は噛み合わない場合もよくある。

村に住みながら気軽に川の冷たさを感じたり、ちいさな畑の仕事に汗すること。これは、少し先の未来を見ると、2度とやらない訳ではないけど、部活など、別のものに打ち込む年齢になってしまえば、遠ざかるシーンになる。

だから今味合わなきゃ勿体ない!っていうのも、ただの縛りなのかな?とも感じたり。

昔は子ども同士で遊ぶのが当たり前であった。今、大人が介入してそれが叶う。少人数だからそういう事になるのかも知れない。学校でも、先生も一緒に一員となって遊びに参加する。先生と遊ぶなんて体育とかじゃないのか。今の先生は遊び相手にまでなるのか。夏休み、子どもと共に川に入る、遊びの計画に密接に関わるなど、保護者として、こんなこと考えているのも、これで私はいいのか?と問いかけたり。子どもの遊びや学びや休息から大人を排除したい訳では無いが今の子どもは窮屈な世界にいる。と思い過ぎているのか。しかし、今の子どもはそれが当たり前。川遊びを一緒にした夜の振り返り。

だからこそ、子どもに自由にあそべというのも、今は難儀なものだ。自由に責任を持てる人間に形成していこうとする子どもが出来てなければ、いつまで経ってもただの自分勝手なワガママ。鬼ごっこで鬼になって嫌になって止めてたりするような。自由における責任を子どもに押し付ける訳では無い。ただ、大人が過干渉ではなくある程度導きを示したい。それが、こどもへアドバイスや言葉による声かけなど直接的なものだけでなく、子どもが安心して遊べるという環境がベースにある事が重要。過疎、過密、貧富、格差は存在する。それを均等に、平等にと、「等しさ」を掲げるのは、大人の悪い癖かもしれない。それぞれのスタート、中継地点、ゴールがある訳だから。そういう大人が格差を憂うばかりでなく、どんな環境であっても、子どもたちが安心して、いろいろな人との関わり合いの中で成長していくという権利を大人が代弁して環境を整えること。それが、ああだこうだ、過干渉に子どもに付き合う前に家庭でも見直したい子どもにとって必要な「社会」という土台だ。

となると、おとなは子どもと遊んでる場合でも無いのかもしれない。