mariannelife

higashiyoshino since 2018

雑味

東京にいた時、「土を裸足で踏みしめないと電磁波が抜けなくて身体によくないわよ」とかなんとかいってくださる人もいたけど、こんな村に来るとそんな事あまり深く考えない。けど考えなければ都会と変わりない生活をしてたりする。

今月は収穫の月。芋ほり、稲刈りを二か所で、お手伝いさせて頂けた。気持ちが良かった。気持ちが良かったのは、手伝い程度だからなのか、知人が云った土との関わりで、土の力でこう感じたのだろうかとぼんやり想う。

さらに私は、これら作業の何が身体に作用するのか、あまり分からないが、人は一心に身体を動かすと嬉しい気持ちになる、気がした。

一心に草を引いたり、作物を収穫したり、運んだり、片づけたり、単純にこれを頑張る、すると人は素直になる、気がした。

 

邪念や雑味ないその働く姿は、ダンスや舞踏、歌と似た表現方法のような気もした。

 

 

一方で、今日、美空ひばりの新曲作りAIで歌声を復活させるNHKの番組を見た。

 

声質や楽譜のスコア通りに歌うよう学習されて表現するが、美空ひばりでは無い。

AIは正確に表現できるが、人間味がない。一部の音程をはずす、音域が二重になっている、リズム感など人にしか出来ない「雑味」が無いと深みがないという事だった。

この「雑味」は人間にとってある時は邪魔くさいもので、ある時は深い。

この揺さぶられる雑味はまるで振り子のようで興味深いなと思う。

めんどくさすぎて体が動かないときは、身体を動かせば意識に刺激を与えられいつのまにかその雑味が存在しなくなる。(私はめんどくさすぎて身体が動かないは皿洗いでよくなる事象ですが、皿を洗いきるまでめんどくさいが最後まで存在していた時も多くある。)

身体から生み出された知覚を手がかりに身体そのものと世界を考察した哲学者メルロ=ポンティ(1908-1961)が居ます。

デカルトは「我思う、故に我あり」つまり意識が重要、とされていたが

メルロ=ポンティは意識だけでなく身体も重要と考え、意識と身体は関係し合って居いる。(身体←→意識)それを両義性というらしく、1つは、意識が動かす身体(意識→身体)もう1つは、意識に働きかける身体(身体→意識)がある考えました。(夏にEテレの番組でみました。詳しくは両義性をお調べください。)

しかし身体、意識が分かれているというのがそもそも思い込みでなのかもしれない。との事だった。家も、川も、草花も、環境も、感情も、身体も、雑味も全てこの世にある同じ肉なのかもしれない。もう憎々しくて、肉々しくてスパークしている。全くよくわからないが、「雑味」も愛すべき私の一部だと見つめたい。