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違いについて2

違いについて、前に走り書こうとした。

◉親の思う子の過ごし方、子の思う過ごし方。

◉Aさんの思う子の過ごし方、Bさんの思う子の過ごし方。

 

それら過ごし方のスタイルや感覚は言葉になる事はほぼほぼ無い。

また有ったとしても、そうなんだね。のそれ以上を語られる事もほぼほぼない。

のが、多くのお母さん方の関わり合い方だ。

よそはよそ、ウチはウチで「鬼は外福は内」みたいな豆まきみたいな呪文で無理くり「違い」を輪郭付けられる。

 

◉裸足は危ないよ!

◉靴は痛くない。

◉靴は早く走る事ができる!

◉裸足は楽チン!

◉裸足は土からの刺激がサイコー!

◉裸足は直ぐ川に入れるし

 

例をいうと、裸足で過ごす事が基本な子と靴を履く事が基本な子。

この違いを「子ども同士」が、認め合えたら凄くいいなと思う。

僕は靴を履くと痛くないし危なくないし早く走れるから好き。Aくんは裸足だとくすぐったくって早く走れるから好きなんだ。

だから靴、だから裸足

である事を導くまでは大変だけど、子どもの今に必要な知かなと思う。

Aくんはいいのに、なんで僕はそれをしてはいけないの?

という局面において、親の「よそはよそ、ウチはウチ」は子どもに諦めを生む呪文にも聞こえる。

 

どういう理由で、履いてる。

どういう理由で、裸足。

この答にべつに深い意味は全く必要ない。

また、答えられなくても良い。

僕は私は、どうしてコレなんだろう。。。

お母さんが良いって言ってるから。先生が良いって言ってるから。友だちが良いって言ってるから。みんながそう言ってるから。それが理由になる事もあるだろうけど、どんな子にも自分の発言や行動に責任もてる人間になってもらいたいなと思う。その時その時の判断や選択は運命的ではあるのだけど、自分の足で、裸足でも靴でも立って歩んで欲しいなと、思う。親も然り。

しかし「違い」とは存在しないものかも知れない。概念に輪郭を生み出したただの呪文で元々は同じ色の集まりの「幻想」かもしれない。幻想に悩まされる事も多くあるが、単純な心が鍵を握っているらしい。