mariannelife

higashiyoshino since 2018

対峙

珍しい訪問者が、私に用があると家に来た。

掃除をしなくてはと、当日までのこの緊張感がただならない。この気持ちは、家を保つためなのか。

かつて、あの家には行きたくない、と夫を通じて知った時、理由を想像した。恐らく、落ち着きなく、汚いからだと思ってる。

綺麗な家に住む人の一部の優先順位は上位に掃除と、社会的体裁を強く意識していると思われる。

恐らく私が今の時代に生かされているのは、一昔前に生きていたでは、そういう圧力に対して猛攻して粉々にしてしまう為お縄になっているだろう。いい時代に産み落とされた。

何故ここまで、拒絶するのか。それは無言の否定なのかもしれない。いるだけで、否定される。

と今考えを巡らせて、感じた。私は否定される事がイヤだったのか!同時に、否定されても構わないのではないか?と問いかけた。そもそも人に否定される事は自分にとり、イヤな事か?と考えた時、ウェルカムでもあるのでは?と落ち着いた。

否定されることがそこまでイヤではない。と言う事が分かった。しかし、霧は晴れない。もしかしたら、回数なのか?否定は意見として取り入れたいと思うが、否定され続けると、その人をイヤになる気持ちを覆そうとする気持ちと戦い疲れる。多くはないが、会うたび、条件反射で疲れを感じる。

もしかしたら、関係性なのか?関係性とは、その人との間柄を指すが、立場という「固定」された関係が難しさの根源なのかも知れない。

繋ぎ止める立場がなくなるなら、おそらく自由になるものはあるだろう。私たちを縛り付けているモノは鎖なのか、夢なのか、思想なのか。そういう疲れの根源は、自分自身にある。という考えは私の本来の考え。しかし、人の性質、変えられるモノもあれば、これだけ気を揉んでも変わらないモノもある。あなたが変われば変わる!は占いや宗教的思想でもある。全ての理由は自分自身に在ると、考えすぎなあなたへ。

近所の仲間が渋柿を持って到来し、お隣さんも剥いて遊んだ。ここは加工場。