時系列の概念
「だいぶ前にあったことも『きのう』と語る」と、同じ村の同学年の子をもつ母が笑って話してくれた。
さっきだとか、きのうだとか、この前だとか、月曜だとか、花金だとか、午前だとか、今日中だとか、親の私自身、はっきり分からなくなってきた。
きのうたべたものも分からない。大人として実に危うい部分もあるかもしれないが、この時期の子どももこんな感覚なのかもしれないと感じた。
日曜食べたものが、「きのう」という言葉にすり替わっていてもそこをとやかく言われても私はそこはどうでもいいと思ってしまう。
時間が進む感覚が、穏やかでいて、刺激的で、時系列の概念が不要。
二度と戻ることない美しい「今」を連続して「あした」が繋がっているそれがよい。
若君がなにか食べて私の寝ているところに来た。
「何を食べてるの?」と聞くと
「・・・むかしむかし、お父さんが、ポップコーンを食べていいって言ったんだ。お父さんが、ポップコーンを作ってくれた。」
と言って、すごいと思って「昔々なんだね。良かったね。いいなポップコーン。」と話した。
夫に伝えると、笑って「昔話になっている。」と言った。
子どもが昔話を怖がるのは、内容だけにとどまらず今これから起こる事のような時系列の感性をもっているから。子どもたちはしっかり今を生きている。大人たちは、将来の為の時間として塾やお稽古にと目を向けがちだが、子どもたちのこの創造的な「今」に目を向けたい。