mariannelife

higashiyoshino since 2018

みんなではなく

東京にいた頃、2歳児の自主保育をやったことがある。

自分のこどもと、クラスのみんな、17名と小規模のようだが、集団生活を送った事のない子どもたちと半日の生活を過ごすとなるとトランス状態!

そういう子どもたちとどういう時間を過ごしどう成長していって欲しいかという事を常々考えながら、ボランティアのOGのお母様と一緒に保育した時間がありました。

登園、自由遊び、集合、出欠、外遊び、お味噌汁、円になってあくしゅでバイバイバイ、降園という半日の流れに、最初は新しい場所に子どももおっかなびっくりで扱いやすいじゃねーかと思っていたのもつかの間、慣れてくるころには喧嘩や自己主張や切り替えがうまくいかない姿にまとめられない事も度々でした。

でも、17人の集団が時間通りに、大人の思い通りにこの流れに沿い、従う事が目的ではないのです。仲間と過ごすその中身が重要であって痛みや悲しみ驚きや楽しみのやり取りがある、仲間が集って生活を営むという社会を学んでもらう必要があるのです。

そこで仲間からもらった言葉と私の感情が結びついた言葉が、

「みんなではなく『ひとりひとり』に」

きれいごとを言うようでしたが、流れも必要で、流れに沿いたくない子も出てきます。外に行きたくない、ひとりになりたい、しっぽとりは嫌だ、脱走!、みそ汁要らないなど立ち止まる事もありどうしていこう…と状況状況みますが、あらかじめみんなを動かそうとすると難しく感情もなく淡々としたものになってしまう。

どうしても体よく、穏便に運べるように進めたいと思いがちになります。そこが違うよねと話せることが出来て、じゃあどうあったらいいんだろう。反発する子にも伝えるべきところを伝えるけど、まだ2歳児。燃え上がるように拒絶し付きっ切りに。今日はT君についてみるよ。とじっくり寄り添う。こういう時普段の生活はどうしてるの?ああ思うがままにさせています。。。その辺を普段の生活からきちんと伝えてみたら?とアドバイスをもらったりしてたなぁ。

ひとりひとりに働きかけるよう声を掛けること、そしてそのひとりひとりを繋げるとがみんながくっついてくる子どもの姿があったなと感じたのです。

A.みそ汁飲みたくない ぼくはネギがいやなんだ B.ぼくもねぎは口痛いからいやなんだ 「Cちゃんは?」 ねぎは甘いときもあるから好き 家で食べた時おいしかったの B.ねぎは甘いの? 「今日のネギはどうだろうね?ちょっと食べてみて?」 A.いや! B.おいしいよ! A.え? じゃあ、、、 苦手なものも仲間が食べる姿をみて食べるというのも面白いなと思いましたし、人間って似たようなもんだなって単純さになんだか安心したり。大人の事情も子どもの事情も不満や嫌な感情の底はおんなじだなと子どもの世界に大人の世界を重ね合わせて、ひとりひとりが繋がるように考えてみたいなー。デカイ事言ってしまった。何が言いたいかわかんねーぞ?まあ、繋げられるちからが生きる底力だなと想う。