mariannelife

higashiyoshino since 2018

クリスマス

東京にいた時、歩いて3分の所にキリスト教会の幼稚園があった。手書きの看板が「神はなになに〜」とか、のその日のタイトルのような手書きの看板が大通りに掲げられていてその内容が、かなり興味深いな、礼拝ってなんだろう、バザーとか面白そう、と思いながらも入る縁が無かった。

今住む場所には5分の所にキリスト教会がある。縁あって礼拝や、祈祷会に参加する事があった。何故行ってみたかというと、牧師さんである友人の言葉が、制作する時の自分の問いかけて似ていて、さらに神の話が面白かったから。讃美歌を聴く、牧師さんの話を聴く、皆さんと握手をする(コロナな今はないのかもしれない)、お祈りをする、それぞれが新鮮ではあったが、どこか昔から参加していたかのよう。

祈祷会は水曜夜にお祈りをする。参加する人の日頃お祈りしたい想いを持ち寄って、共有して、お祈りをスタート。これが凄い。暖かく静かなところ思い思い、椅子に座ったり、体育座りしたりして、心を一つにして無言で、目を閉じたり、時間で言うと一時間を過ごす。瞑想みたいなイメージ。

私はこういう時間を今まで過ごした事がなく、私はただひたすら穏やかに眠るように祈る時間が凄く好きだった。何も無いようだけど在る瞬間というか。その時聖書をチラ見したり、制作過程で必要な時間と似ている。それぞれ一つのわたしに内在するものを聞いて、問いかけて、祈る。白い時間。その後、参加した人とどんなことを祈ったりしたか話をして共有する。そして神に祈る。神に祈るって一体どういうこと?願望?感謝?などなど、言葉で口にして気持ちを届け、最後にアーメンという。ああ、これはどこかでみた事があるような。そういうシーン。

祈りの気づきの分かち合いも凄く学べる。楽しい。あーこの人はこう言う事でそう感じられるんだなーこんなことを感謝してるんだなぁとか。私が当たり前に思う生活さえ、感謝に繋がる。前の幼稚園で、どこかのシーンで、当たり前なんてない、との誰か放った言葉も深い水脈から繋がる。

お祈りとか、宗教的側面でしか無いと思っていた。私は何教とかじゃないし、そう言うのに誘われてても、何教とかの考えにハマり、属性に分類されることも、その習慣を持つ事もいやだし、自分の努力や積み重ねこそ、確かなものでありたいと思って崇拝するような考えは無縁でありたいと感じていた。

でもそういう固定された考えはその先に何も産まない。私が田舎が嫌いで、でもそういう考えで一生を終わらせたく無いのでまず中に踏み込んで山間部に暮らす今がある。それとにた思いもあった。また、有料?とか気になったし、入信手続きにサイン、笑笑、とかなんとかでもなく、お家に行くような、図書館に行くような感覚でお邪魔し受け入れてくれた。

キリスト教は聖書という神が書いたと言われる本がキー。こりゃ読めるわけないっていう厚み。辞書だ。でも85%は読んだ。世界のベストセラーを読んでいます。一つのお話なんだろうけど、短編が集まっていて読みやすい。難解な部分もあるけど、繰り返して読めそうな書物でいつも新しい。

なんだかんだでまとまりがないのだけど、ただ、生活での話を聞いたり、感じる世相を問いかけたり、こう感じたとか、コロナだからに関わらず、今の時代考えの持ち寄り、分かち合いって今はなかなかないんじゃないかなと思う。祈る事で分かち合う。それが出来る所で好きな場所です。

神という存在にとんがっていたし、クリスマスという商業的なイベントに、金を注ぎ込み、欲だらけな日に厄介だとさえ感じる私もいた。ターキーを用意するとか、飾りつけするとか、ツリーを出すとか色々あるけど、今私は静かに神の誕生を家族でケーキとコーヒーだけで祝う日としてコンパクトに。神様おめでとう。それぞれのメリークリスマス。