mariannelife

higashiyoshino since 2018

成功

都会にいるから成功している、高いワインで美味いものを食べているから成功している、資産が1億あるから成功している、子どもが大企業に入社したから成功している、色んな人脈を持って好きな事して生きているから成功している。

だから成功している人は偉い、デキるひと、賢い人。そう偉くなりなさい。という思考は、安易ではないだろうか。

その真似をしてあなたが本当の豊かさを得られるかどうかは別で、もっと自己の内的なモノに感謝した方が良い。

成功という言葉のゴールが一方通行。これが危険。そう成功に憧れるならきっとその人が一方通行からソレを成すことが近道だけど、もっとオリジナリティある思想があるはずだ。と、4年目の田舎生活で感じている。

偉い、賢い、是非オレを真似ろという成功者が自身をデキると思い込む時、その思想の歯車に他者を巻き込み、砕く。餌食になり、いつのまにか偉さに憧れた人自身が成功者の土俵に抱合され、血肉というパーツに成る。他人を食い物にし、安易な私たちは姿、カタチもない。

「成功した」という新感覚の定義は、その時代に生まれた運のようなモノで、神が定めた予定調和の結果、私が在ると気楽にラッキーと思っていい。

つまり、真の自分の実力というのは、多くは不確かで、奇跡であり、運だということ。

成し遂げ成功した人は、そういう思想を持つ人を煙たいと思うだろう。自分自身の実力でなく運だなんて。私は無能と悟ることが出来た。なので、成功したいとあまり思わない。恐らく、ここが社会とズレる面なのかもしれない。


1日1日、私たちはどういう未来がまっているか分からない。私たち立っていけるのだろうか、この子が、どんな事に楽しんだり、どういう道を歩むのか、その為にしてあげられることはあるのか?どんな接し方がいいのか?ある程度見通し立て備えられる事も多少あれど、真の未来の分からなさに、私たちは戸惑い、悩み、そして向かい合わせになり、丁寧に接したり、しっかり見届けたりして、1日1日を過ごしている。能力などの自身の持ち物に関しては多様であるが、未来が分からないという点では皆同じ。

ここでいう新定義の成功とは、

”ここに私が在る”

というざっくりとした「◎(まる)」と示せるのではないだろうか。

と、無益、無能、ネガティブの博士は思うわけです。芯がありながら、とことんブレを楽しめるように。